東日本大震災ボランティア 4th (福島県いわき市)参加
本格的な梅雨の時期を前に、復興作業のお手伝いを少しでもという衝動で、福島県ボランティアセンターの呼びかけによる“いわき市へのボランティア募集”に申し込んだ。
この日は全国的に雨が予想され、前日までの天気予報もころころ変わる。センターへ確認を取ると、よほどのことがない限り決行するとの頼もしい返事に、早速バスを手配し、午後8時に梅田を発った。集合場所である郡山駅についてみると、少し風はあるものの、なかなかの良い天気。
最終の予報では、昼から雨と風にみまわれるというものであった。
8時を過ぎたころには、多くの方がバスの前で受け付けされており、8時30分、その日集まった全国からの勇士たち30名を乗せたバスは、いわき方面へと向かった。
何とも心地よい天気に迎えられながら、いわき市沼ノ内地区へとへ行っていった。
このエリアは、いわき市中心部より東、沿岸部に位置する。発災より二ヶ月を過ぎた現在において、このあたりの様子は、極めて大きな被害は見受けられなかった。(後で分かったことだが、南に離接する地域はほぼ壊滅状態であったそうだ。)
バスが停車した場所は、その集落を含むエリアからのガレキが集積された場所であった。決して大きな集落でない、その規模からすると、想定以上のガレキがそこに積まれている。
これまでの時間の苦労が、形となって積み上げられていたのである。
私たちのコーディネーターがいわき市のボランティアセンターと掛け合った結果、作業は二種。ガレキの分別作業と、側溝の泥掻きであった。
二つの班に分かれ、私は側溝を選択した。
向かった先は、歩いてすぐの海岸沿いの集合住宅で、100m前後の道路部分に面する左右の側溝。
特殊工具を使った二人が蓋を外し、数人が一気にスコップで泥を掻き出して土のう袋に入れていく。地味な作業ではあるが、前回の新地町同様、これから梅雨を迎える時期なので、その必要性は価値が高い役割である。沿岸部は特に雨水が流れ着く場所だけに、滞ることは被害を増加させることとなる。
側溝の蓋は、ここいらの企画なのであろうか、大きめで決して軽いものではない。
実際に堆積していた泥はというと、津波後から放置状態であったのか、少し異臭を放つが、耐えれる範囲で、まったく問題ない。
参加されていた方々が、とても力強く作業されたおかげで、みるみる土のう袋が並べられていった。
昼を過ぎた頃であろうか、コーディネーターから、片付けの要請がかかる。聞くところ、近隣まで雨が降り出しているとの情報であった。この時点で、福島県内の主な作業は、私たち以外、全てが雨天のため中止となっていたそうだ。
あわてて、側溝の蓋を元に戻す作業に取り掛かる。
どんどん空が暗くなり、風が冷たくなってきた。効率よく、何とか作業を完了してバスに戻ると、突然雨が降り出してきた。
一日作業でもお手伝いしたいとの思いで集合した我々には、少しもどかしさは残るものの、当初の天気予報からすれば納得できるものだといえよう。
午後一時過ぎに、現地を出発。途中のサービスエリアで長めの休憩を入れても、3時半には郡山駅で解散となった。
予定よりずいぶん早く終了したため、土産を物色し、新幹線を乗り継いで、9時過ぎには大阪に戻ることとなった。
福島県ボランティアセンターでは、GW以降、応募人数に落ち着きがみられているとのこと。近隣の学生たちが5月より始業したためもあるが、連休休みと違って、通常の週末では遠隔地からの参加は厳しくなる。実際、当日参加者も地元の郡山や県内の参加者が多くみられた。
それでも、遠くは沖縄からの参加者もおられ、各地からの想いは、いまだ福島【東北】に向かられ続けている。
どのような形であっても、長期にわたり目を向け続けることが大切である。
その日のニュースで分かったのだが、当日午前7時頃、茨城県北東部で震度4(M5.5)の余震があったそうだ。その頃、郡山駅いたことになるが、揺れた記憶はなかった。
とにかく余震と呼べる規模をはるかに越した揺れが、いまだ続いている。スマトラの例もあるので、まだ過去の惨劇ではない。
復興もさることながら、原発をはじめ、被害がこれ以上拡大させてはならない思いに駆られる。日本人に課せられた試練にしてはとても甚大すぎる。
一日でも早く、プラスだけを考えられる日が来ますように。
福島県災害ボランティアセンター 当日の様子
(HICO)