東日本大震災ボランティア 17th(南相馬市小高区) 参加
震災から3年を迎える今月にどうしても知っておきたいこともあり、3月5日に南相馬市小高区へ・・・。
前に予定していた日がちょうど大雪の日となってしまい、あえなく断念しただけに、無理に予定を調整して平日の限られた日程で出かけることにした。ついてないことに天候がまたもや怪しい天気で、出かける時点の予報は昼から雨。それでもほんの少しの時間、お手伝いできることがあるのなら精一杯力添えしたいとの思いで強行することに。
つい最近、原発からの距離が小高区とそう変わらない田村市の一部では避難解除になったことで小高区をはじめ他のエリアの動向も気になるところ。これまで、避難されてる方が多いのでそれほど多くはないが、会話を交わした住民の方たちのことを思うと、置かれている現状と住民の戻ってきたい思いを考えると胸が痛い。何れにしてもはっきり早く決まってほしいところである。こうして3年もたとうというのに、責任と補償、特に将来の希望が見出せないエリアがいまだ多く存在することを是非知ってもらいたい。
原発事故後、3年5年6年と順に避難解除予定はたてられている。3年解除に含まれた田村市のほかあげられていた数か所は実際には先送り。
見込みを提示しないのでは話にならぬが、現場の状況を加味すると、いまだ線量の高いところはどうしても残る。除染が思い通り進めての話だがどのように想定しても5~6年で安全という数値なるとは考えられない。されど人の思いは様々で、年配者は戻ることを望むが、小さな子供のいるご家族には到底納得できたものではなく避難を余儀なくされる。
何時ものように前日夕方Peachで関空を発ち仙台、そして70キロ南下して南相馬に着く。翌朝、小雨の降る中、集合時間である8時前に小高区ボランティアセンターに到着。ここには6回目、来るたびに思うことだが、町自体は大きな変化こそないものの、駆けつけるボランティアのおかげで確実に一歩ずつ進んでいる気持にさせられる。
8時半前、センターでは約11名がそろった。これでも平日は多い方であるとのこと。関東から早稲田の学生さん3名、熟練の年配者数名、あと私を含む中途半端な年齢の何してるかわからぬ人たちで構成。その中には見覚えのある人が…、SORA(動物保護団体)のSTAFFさん。彼はこの日、SORAでお休みをもらって初めて南相馬へやってきたという。20代半ばの若い青年ながら、SORAでは代表の右腕的役割を担うほどしっかりした人物であったことは記憶に残る。そんな彼が休日にはこのように他のボランティアへ参加することはとても素晴らしいこと。この一日でもたくさん勉強になったと最後に言ってたことは頼もしい限りである。
8時半を回わり、ミーティング。この日あらわれたのはセンター長ではなかった。彼はこの二日間お休みを取っているらしく、あの意味深いお話を今回は聞くことができずに少し残念。とはいうものの、彼の意志はあらゆるところに受け継がれており、これまた若い青年がセンター長に代わって取り仕切る。
この日の作業は、農家さんのビニールハウス解体現場に蓄積する鉄パイプ等の除去となった。
2トントラックと3代の軽トラで、資材を積み込み早速現場へ。
数日前より多くのボランティアの手によって解体された、パイプやビニール、スプリング類が積み上げられていた。最初にリーダーが作業の振り分けと工程を伝え、それぞれが熟慮して首尾良く作業にあたる。朝からしとしと降り続く雨に少し寒気はするものの、内容は明確であったため、黙々と従事してはかどる。作業を同じくしたこの日の仲間たちはやはり皆がベテランさんたち。細かい振る舞いや動作、アイデアなど、感心させられることがいまだに多い。
すぐ近くで雉がこちらを見ているほのぼのとした空気感の中、あれよと二台の軽トラが満タンになり、さらにピストンでもう二台循環。これに積み込んだ時点でお昼休憩となり、センターへ戻る。センターそなえのカップラーメンで暖をとり、小一時間ほどゆっくりできた。
昼からは私を含む4名が鉄パイプ等を積んだ軽トラ4台でどこかに移動することに。詳しい内容を聞かされぬまま約12~3キロほど北上するとたどり着いたところは鉄くず廃棄現場(?)。手作業で丁寧に積み込んだブツたちは、いとも簡単に大きな磁石で吸い上げられ、あっという間に全ての軽トラは空っぽ状態となった。その後、そこの事務所に迎えられ、しばし暖を取っていると、ようやく一連の内容を悟ることができた。
所有者がボラセンもしくは解体業者を選択し、大人の事情が絡み、センターの維持費の一つに回されるということだ。おおよそ1トンの鉄くずは約48000円也…。
解体するにも費用がかなり発生するため、無償のボランティアに依頼することは理にかなったことであろう。この地域もこの先除染がなされるとのことなので、点在する被災したビニールハウスなどは次々と撤去されるとのこと。小高は小さな町ではあるが、二年後に予定している避難解除に向けて、人が喜んで戻ってこれる場所にすべく、ほんの少しお手伝いができたのかもしれない。まっだまだではあるけれど…。
広大な土地の除染にかかる労力と費用、予算は計り知れず、さらに安全に対するふわふわとした基準にどうしても何かにつままれている気がしてならない。
されど地道に前に進むことしかなく、終息など見えそもないこの活動も気が付けば一歩一歩なのである。
結局ところ、一日作業中、いちども雨が止むことはなかったが、誰も手も足も止めることなく、貴重な一歩を刻めたかもしれない。
(HICO)
写真記録は配慮と雨のため、ほど取れてませんでしたので御了承願います。