東日本大震災ボランティア 3rd (福島県新地町)参加 5月4-6日

 今回で3回目の東北大震災ボランティアに出向いてきました。
GW期間中は多くの支援者が東北被災地に集まってくるだろうと考え、当初は参加する意思はなかったのだが、ネット情報で募集をかけているサイトがあった。
ゴールデンウィークも前半が終わろうとする5月1日のことである。
多くのボランティアは、既に支援先が定まっているので、急な募集にはやはり反応が悪い。半日待ってやはり電話することにした。
福島県相馬郡新地町 - 福島県の北部、宮城県との県境に位置する。
福島県災害ボランティアセンターの呼びかけによるもので、5月3日から8日まで、毎日40名を限定として、JR福島駅よりボランティアバスで送迎していただけるもの。
3日、4日はすでに埋まっていたので、5日に申込むとすぐにバスを手配。


大阪駅が街になったとかで、なんだか賑やかな5月4日の梅田を夜8時に出発し、翌朝7時20分に福島駅に着く。
8時15分の集合時間には、全員がバスで待機しているという状態。どの顔にも気合が窺えた。
1時間40分かけて、相馬の向こう側、新地町にたどり着いた。

個人でセンターに行くと、コーディネートが完了するまでにかなりの時間を要する。ましてやGWだと、手伝う仕事がない状態も考えられる。
そこは、県の募集したボランティア。
現地では、災害本部センター長のあいさつに始まり、担当者による仕事内容の説明、そして準備まで15分ほどで、現地に向けてバスのまま移動。新地町の最南部(相馬市との境)の海沿いの集落、今泉地区に着いた。
これまで目にしてきた石巻の光景とは違い、家屋などほとんどが流されてしまっている。石巻では、流された船や家屋が町自体をを破壊しながら、つぶれ重なった状態でとどまった経緯がみられた。一方、ほとんどの海沿いの集落はどこも同じ状態と思われるが、津波そのものの威力で、全てが砕け散ってしまった様子。
これまでの自衛隊など多くの力により、道らしきものは道路となり、真新しい電柱と電線が設置され、区画が再現されつつある時期であった。箇所によっては、いまだ多くの自衛隊が遺体捜索をしており、手つかずの場所も多い。かなりの時間と労力を要するこの現状に、改めてこの災害の大きさを知らされた。その光景を目にし、いつしか、誰からともなく皆が手を合わす。

 話を元に戻し、現場に着いた私たちは、11時過ぎより、主な仕事である“側溝の泥掻き”を開始。
この溝をきれいにしないことには生活用水を流せない、という重要な仕事である。聞こえは簡単なようなのだが、数日間募集した多くのボランティアがほとんど同じ個所の側溝をきれいにするには、なるほど簡単な作業ではない。5~10cmの石がほとんど敷き詰められている溝は、掻いても掻いても底を見せない。ところどころに、50cmほどの動かせそうにない石が流れを詰まらせる状態。
班は四つに分かれ、分担しながら、短時間であったが、かなり体力を要した作業は、こまめな休憩を入れながら、2時過ぎと意外に早めに終了。
 少しやるせない思いを残しながら、センターに戻り、スコップ等の用具を洗い、5時前に福島駅に戻った。

(余談1)
休憩時間、すっかりおとなしくなったと見受けられる川沿いでゆっくりしていた。
地元の中学生が自転車で横切ったので、声をかけた。
「そこで魚が跳ねたでぇ!」、もちろん嘘である。
覗き見る中学生に、頑張れとも言えず、笑顔で手を振ってその場を後にした。

(余談2)
福島市内の商店やスーパーなどでは、野菜こそ若干少ないものの、大阪に比べても相対的に安い。自己消費(地産地消)において、何ら問題は感じ得ず、普通に買い物を楽しんでいる様子もうかがえる。一方、流通を外に向けた場合は、原発風評による不買がかなり深刻であるとのこと。
放射能数値はここ数日間、例年並みとなっているらしいが、全体的に終息される流れではないだけに何とも感慨深い。
私たちに何ができるのか、いろいろと考えなくてはならない。数年間、数十年間。
簡単ではない問題がそこにあるのです。

(余談3)
この日参加したメンバーは、遠く鹿児島から、広島、西宮、岐阜、新潟、神奈川、東京、山形、北海道、そして大阪、文字通り全国から駆け付けていた。前日までには、沖縄や海外からも多く参加しているとのこと。