東日本大震災ボランティア 23th(南相馬市小高区)

東日本大震災ボランティア 23th-吉沢牧場01年の瀬も近い12月、選挙街宣のボリュームも高まる中、南相馬に出向いた。
私事諸事情を考慮すると今後それほど向かえる機会も少なくなりそうなので、復興のお手伝いはもちろんだが、おさめる意味で近隣を見て回る時間を設ける予定であった。

いつもながら仙台空港から車で南下。今年9月からいわきまでの国道6号通行止め解除に加え、今月6日に常磐自動車道で相馬までの開通もあって、夜の走行でも交通量が少し増したように感じられる。
人が入り、街に動きがみられる大変喜ばしい活性化で、一見すると動脈硬化は改善してるかに思える。その血流は、決して細部に行渡っているわけではなく、国道6号の側道はほぼ通行止めであることは、依然住民目線においてもどかしい状況にかわりはない。

東日本大震災ボランティア 23th008時半、小高のボラセンにて集合。週末の寒波はこの地でも同様で、気温は0度近い。センターでたかれたストーブにあたりながら打ち合わせ開始を待つ。この日、団体数組、個人が10名ほどが集まった。間もなくセンター長M氏の説法に近い挨拶があり、有難く胸に響く。
このセンターでは長期滞在者やベテランのボランティアさんが多く、おおよその重機関係から設備運営は熟知されておられるのでとても頼もしい。決して偉ぶらず、動きも無駄がなく、些細なことも快く接してくださる。人として非常に感銘を受けた出会いのひとつだ。

東日本大震災ボランティア 23th04班分けがいつの間にか済まされ、ビニールハウス解体現場が本日の作業場所となった。
早速資材を軽トラに積み込み現場へ。場所は山側の浪江町に隣接する農家さん。ちょうど以前から伺ってみたかった”吉沢牧場”のすぐそばであった。

東日本大震災ボランティア 23th03東日本大震災ボランティア 23th02東日本大震災ボランティア 23th01開始前に黙とう。
午前の作業は、これまでに解体されたハウスの資材を軽トラに積み込める大きさにパイプ類を裁断することが主な作業。寒空の中、裁断機の火の粉を浴びながら、黙々と3時間弱。昼から個人的に引き上げる予定であったが、線量が比較的高いこの場所において、作業の区切りまで従事することにした。昼からは、残して再開させるビニールハウス数棟分のハウス内掃除。かけられた筵の上に堆積する砂やゴミの掻き出しで、スコップとネコのピストン作業。
結局、3時まで継続して、少し早く上がらせていただくこととなった。

東日本大震災ボランティア 23th-吉沢牧場02現場を後にし、すぐに吉沢牧場へと向かう。
福島第一原発より、14キロの距離にある希望の牧場-吉沢牧場。殺傷処分の命令後も、牛を守り続けている。
福島の現実を示す証拠として、最大の被害者ともいえる牛を生かすことは意味があり、貴重な生きた資料。今後の大きな資産になると訴え続けている。
参考書籍:
原発一揆~警戒区域で闘い続ける“ベコ屋”の記録
希望の牧場 (いのちのえほん23)

東日本大震災ボランティア 23th-富岡時間の許せる範囲で国道6号を南下することにした。
福島第二原発にほど近い富岡町に立ち寄る。何もかもを押し流した津波の影響がほぼ手つかずの状態で、駅から海側は広大に開け、除染のトン袋が積まれた様子が数か所見受けられる。このまま地に埋めるか、偶発的に海に流れ出るのを待っているものなのか。県内至る所で見受けられるこの黒い袋の山積み、”どうしたものかぁ”
置き去りに映るこの「責任の汚物」は、こうして忘れ去られることを待っているのだろうか???。
あたかも復興が進んでいるかのごとく、そして安全性をうたっては原発再稼動を推進する動きはとどまりを見せない。賢い人たちが決める安全基準に基いた原発再稼働、その前に、こいつらを何とかしてくれ!・・・です。

そんなこんなで12月14日は選挙。
国民の関心事が低い今回の選挙、どうもこのところ、我々の一票の価値が低くなってきたように感じてならない。血税700億を作為的な国民指示として得たいのかもしれないが、個人の意思は一票として表したいものだ。

P.S.
今回で23回目の東北復興のお手伝い。発災後4月に初めて石巻を訪れてから、このところもっぱら南相馬の小高で作業に加わってきた。自然の猛威と虚しさ、そして人の温かさと希望。東北人の寡黙な底力と謙虚さに見る思いやり和学。数えきれないほどたくさんの現実を垣間見た気がする。
復興で何か区切りがあったわけではないが、ひとまず東北震災のお手伝いを休止させていただくとしよう。
何かが自分の中できっと宿したことを信じて、今後、ほんの少しでも社会に対していかされればと思う。
(HICO)