東北へ 2月11日12日 レポート

東日本大震災からまもなく一年。現在の経過をこの目で確かめる為、岩手県・陸前高田(高田松原)から宮城県・松島(塩釜)までの海岸沿いを車で巡った。
昨年は私的事情で現地へ向かうことが困難だったため、震災後初めての現地入りとなる。限られた期間を計画的に遂行する為、幾度となく復興支援ボランティアに出向いている同伴者のもとで計画を立てた。
2月の寒期による道路凍結や復旧工事などを考慮してのプランに、ほぼ予定通りを遂行する事ができた。

9時25分伊丹空港を発ち、10時40分仙台大空港に到着。手配済みのレンタカーで早速向かった先は塩釜。発災後、比較的早期に復興した塩釜漁港の市場で、観光に支障のないほど景観は復旧されたものであった。
威勢の良い多くの店主に押されるようにして、東北の海の幸を昼食に充てた。
隣接する松島と2ヵ所の物産店を足早に廻ったが、何れも流通の状態はまだ完全ではなく地方物も多い。しかしながら、活気を取り戻すべく振る舞う姿は、特に印象深いものがあった。
その後、車中から松島の景観を横目に石巻へ。

14:50 石巻(過去ボランティア活動のその後に赴く)

石巻は宮城県内第二の人口を有する市。マンガお寿司の町と呼ばれている。日本人なら皆がご存知の仮面ライダーやサイボーグ009などを生み出した漫画家、石ノ森章太郎がこの地をスーパーヒーローと出会える町として賑やかした。
石巻市役所の裏手パーキングに駐車し、商店街をゆっくり歩き始めた。都会で言うならコンビニを見つけるような頻度でスーパーヒーローのオブジェをたくさん見つけることができる。好きな人ならば、『おっ!』と立ち止まってはオブジェと写真撮影をする姿を想像する事ができるだろう。スタンプラリーがあればきっと大喜びで街中を散策するはずだ。しかし、商店街は半分以上がシャッターを下し、すれ違う人もわずかだ。
北上川付近へ向かうにつれ、少しずつあの日の傷跡が増えていく。割れたガラスのまま人影の無いショーウィンドー。車が突っ込んだようにえぐれたシャッター。
肌を刺すように吹き付ける冷たい風の向こう側へと視線を移した。北上川河口の中瀬にぽっかりと浮かぶような丸く流線型の白い建物、石ノ森萬画館が姿を現した。壊れた手すりを補修したままの内海橋を渡り、建物へ向かう。閉館している建物の入口にはコンパネが何枚も貼り付けられ、様々な人々がメッセージやイラストを残していた。
橋を渡りきった向こう岸の目前に、取り残された家屋が。一階部分が駐車場のように向こう側が見通せてしまえるが、きっとあの直後では見渡すかぎりの惨状でそのような部分だけを凝視する事など出来なかっただろう。
同伴者が以前、ボランティアで向かった家屋の側溝掃除をしたという場所に赴き、その外観を見て胸をなでおろす。人の住まいとしてふさわしい状態である事が分かる。川に面して一筋通りが奥だったり少し高い場所だったりがこの差を生み出している。その背後は家が無い跡地が広がっているのだから。

15:40 ふれあい商店街・佐藤ミートの店主に話を聞く

来た道を戻りつつ、商店街で営業を再開しているお店を見つけ、そこに立ち寄りご主人の話を伺えた。
「わたしは町が飲み込まれていくその様子を見ていないから、よく分からないのが本当のところで、親類や知り合いには亡くなった人もいましたが、うちは家族がひとりも欠けなかったことが何より幸いのことでした。」と話しておられた。
「地震後の津波警報は聞こえませんでした。でも、海岸沿いの方から真っ青な顔をして走ってくる人が“早く逃げろ!”と叫ぶのを聞いて、慌てて店から離れ高台へ逃げました。その日はそのまま帰宅して家族の無事を確認しました。石巻市では夜に打ち寄せた第三波がいちばんの高波だったらしく、次の日お店へ向かって町の状態にびっくりしました。
数ヵ月後、業者から「お店はどうするの?」と聞かれました。もしも家族が揃っていなかったらどうするか悩んでいたと思います。自己破産するか借金してまた店をするか、どっちかしか無い。だったら(家族のために)“もう一度頑張ろう”と思うでしょ?もちろん私はやろうと決めていましたから「頑張ります」と返事をしました。
それから開店にこぎつけるまで、たくさんの人たちにご協力して頂きました。本当に感謝です。家族がみな無事だった事が何より私にとっては大きかったと思います。」

同じタイミングでお店に来ていた若い女学生さんたちは長野から桜の植樹のためにボランティアでこちらへ来ていたとのこと。お店で振舞って下さった温かいお茶とお茶菓子をご一緒に頂いた。
「ボランティアの人たちには本当にいくら感謝してもし尽くせません。本当にありがたいことです。ありがとうございます。」とご主人は何度も話していた。
地元のお客さんが訪れて来られたので御礼を述べ店を後にした。ご主人、奥様、そして息子さんの温かく接して下さる存在が、いまこの町に住み続けている人たちにとって生き続ける勇気を与える存在であることが分かった。そして家族と共に暮らす何気ない日々のささやかな生活が、いかに大切で幸せなものかを痛感させられた。

16:20 ふれあい商店街仮説店舗・パン工房パオの店主に話を聞く

暫く歩くと、大きな看板にふれあい商店街と大きく書かれた仮設店舗が目に入った。ぐるりと回ると飲食店や食品販売、散髪屋などの様々なサービス業のお店が20店舗ほど並んでいる。
その中にあるパン屋さんの店主の女性からも話を聞くことができた。
「私はね、津波の原因となる地震よりも前の揺れの方がもっとひどい様に感じたんですが、その時はまたいつもの警報くらいにうけとめて余り心配していなかったの。でも津波があった日の避難警報は普段よりもずっと大きく聞こえたように感じて。今回の警報はただ事じゃないと感じたんです。胸騒ぎで本当に怖くなって、三階建ての隣人さんが“ここへおいで”という言葉を振り払って高台へ逃げました。夜のいちばん大きな津波でお店は駄目になりました。この齢でまた借金してお店を始めるのはどうかと悩みましたけど、70歳を越えるパンの職人さんが“やりましょう”と背中を押して下さって。製造工場の方にも励まされて決心し、ここでお店を始めてちょうど一ヶ月が経ちました。毎日いろんな国のボランティアさんが来てくださいますし、なじみのお客さんもぽつぽつと戻って来てくれて元気を貰っています。全国の人にも注文してもらえるようにと、若い男の子が注文書を作って下さったりして。そんな皆さんのご協力のお陰で、今も頑張れるんです。

30分ほどお話を聞いていた間も、フィンランドやブラジルから来られたボランティアの方々や、里帰りのためにこちらへ戻ってきている馴染みのお客さん(の娘さん)などが訪れては、様々なお話を聞かせて頂いた。
「借金のことを考えて諦めてしまっていたら、生きる希望のない日々を送っていたと思います。先のことを考えるとすごく不安になりますから、今だけを考えています。私はまた商売を始めることが出来たから、こうして皆さんと出会い、お話もできるようになりました。それはとても幸せな事でほんとうに感謝しています。」
ひとは人から励まされ応援する気持ちに応えることが出来たときに喜びを感じ、また自分自身も人を励まし応援できる力を誰かに与える事ができるのだと感じた。心が込もったもてなしや言葉の節々に、こちらが励まされているような気持ちになっていることに気づかされた。前を向いて歩いている人たちには、すごい力がある。
この後、テレビの取材でサンドウィッチマンが来るというので、切り上げることにした。

気付けば外は暗くなる直前。仮設店舗を後にして駐車場に戻り、ひとまず来た道を戻る。仙台駅近くに予約していたビジネスホテルにチェックインし、食事を済ませて明日の予定を確認し、その日は程よい疲れと共に就寝。

翌朝は6時半に起床。カーテンを開けると天気予報の通り雪がちらついていた。レンタカーを借りる際、道路の凍結話などを聞いていたこともあり、少し予定を繰り上げてチェックアウトをし、陸前高田へ向け高速を走らせながらコンビニで買ったおにぎりで朝食を済ませる。天気は山間に向かう勾配付近で、横降りの激しい雪に襲われ、前の車両が巻き上げる地吹雪と汚れを含んだ泥雪で非常に視界が悪く、慎重な運転を余儀なくされた。 一関ICで高速を降り、国道をゆっくり進む途中、道の駅(かわさき)にて御花を2束購入。

11:35 気仙沼・高田松原の一本松へ

11時半を少し過ぎた頃、陸前高田に向かう峠の海沿いから一本の木が目に入った。高田松原の海水浴場に一本だけ残った松だ。どんよりと曇った空の下、じっと踏ん張る風貌でぽつんと寂しそうに立っている。その木に近づくために気仙沼大橋(自衛隊設営の仮設橋)を渡り、道沿いに車をゆっくり走らせた。何もかも流された景色の中に、2・3箇所だけ建物が残っている。近くまでいくと入口上の表記で大型のホテルということが分かった。前に残されていた車がくしゃくしゃに丸められた紙くずのように捨てられ赤茶色に錆びている。

きっと美しい砂浜と7万本の松林があったこの場所は、毎年夏になるとたくさんの家族連れや観光客で賑わったに違いない。しかし、今は大きな建物の廃墟を残しただけで人の存在を感じる事ができない。広々とした大地にうっすらと雪が積もる。そのせいで余計に静けさが増すような感じがした。
橋のたもとに小さな出光のガソリンスタンドがあったので少し戻り、そこで一本松へ行く道のりを尋ねた。だが、スタンドの店員(隣町在住の被災者)は言葉を濁してあまりお勧めしない、と言った。

「松の近くには、すぐ逃げられるような場所が無いので、また津波が来たら松のところから走っても絶対に逃げられませんよ。だから近くまで行く事はお勧めできません。いろんな人が一本だけ残った松を見に来られますけど、誰が来られても同じことを言っています。」
ご供養のためにお花を供えに行きたいだけだと話すと、やはり同じことを繰り返され、仕方なく
「行くと言われるのなら行き方はお教えしますが、地震があったら直ぐに逃げてくださいね。津波は川に沿って上がってきますので、あそこはとても危ないですから。それからすべて自己責任の下で行ってくださいね。」
隣町に住むという彼の言葉に、秘めた重みをひしと感じた。地震があった後、多くの人々が命を奪われたあの苦い思いをもう誰にもあじわって欲しくはないし、またそのような瞬間を二度と繰り返したくはないというスタンド店員の思いが十分なほどに…。

簡潔な内容を同伴者に伝え、私はトイレを借りた。その間、同伴者は同じ話をさらに詳しく店員にされていたようだ。行き方を教わり、その通り進み、車を止めて松の袂までゆっくり歩いた。

松の近くにある橋の近くに岩手放送局の車と観光車が止まっていた。震災から一年、その後の東日本の状況として流されるのだろう。ガイドのような方が質問に答えておられた。
わたしたちは松の前に植えられた小さな苗木の前に献花し、手を合わせほんの少しだけ辺りを見回し、松を見上げた。どこかの報道で、この松はもうだめだと言っていた。松の前にはこんな言葉が書かれていた。
“一本松の願い”「少し休みます。枯れても切らないでね。変わったかたちで甦りますから。」
この松に、どんなかたちであれ、生きていて欲しいと心のどこかで語りかけていた。

突然吹雪きだしたため車へ戻り、陸前高田をあとにして海岸沿いを下り気仙沼港へと向かった。
気仙沼市街地に入る手前、まだ陸地の至る所で漁船が置き去りの状態。テレビで何度となく目にした巨大な漁船が目の前に現れた。忘れるために撤去するべきか忘れないよう撤去すべきでないかの議論に結論は出たのだろうか。撤去するには何千万もの費用かかることや諸々の事情が重なっていることは推し量れる。相当経過する現状として侘しさをも受ける景観に、複雑な気持ちがこみ上げてた。
港に出ると、係留された漁船の大漁旗が見えた。港付近の気仙沼物産を売りにする市場に入る。どこからともなく人が集まってきていた賑わいは、美味しい食材探しに留まらない、希望を表した支援にも写っていた。
場内で、マダラ、マグロ、大きな水ダコなどの鮮魚、秋刀魚やふかひれの加工物産を隅から物色したあと、市場内で昼食をとった。

町として機能を取り戻すには、産業の復旧は不可欠。国内有数の漁港として、近隣の漁港のためにも、早期の復興を望むところ。

国道を海岸沿いに南三陸町まで下った。
道路は細かく曲がりくねりながら上り下りし、その度に繰り返される景色には、上手く表現できる言葉が見つからなかった。ここに住んでいた人たちは今どこでどうしているのだろう?果たしてまたここへ戻って来て平穏な暮らしを取り戻せるのだろうか?そんなことを考えながらも気を取り直し、車中から映像を撮った。

15:05 南陸前町

3時過ぎ、南陸前町の志津川へ着いた。避難場所だった防災対策庁舎の鉄筋柱の前には献花台が設けられていた。近くへ行き、花を添え合掌した。ただ傍に行くだけで精一杯、凝視はできなかった。視界の左斜め後方に赤十字のマークが目に入った。志津川病院の4階にまで押し寄せた大津波の跡形が、ありありと見て取れた。多くの尊い命を奪った今回の大地震・大津波で一番の被害(死者)を被ったこの場所に再び人々の暮らす灯火が照らされることはあるのだろうか。この惨状を経験した人々に同じ場所で暮らす勇気があるのだろうか。
つかの間、その場所に佇み、かすかに往来がある人々と行き交う車や高台の住まいなどを複雑な思いで見つめていた。
一年経つにも拘らず、何も進まないこの光景を直視し、今までテレビが映し出すニュースで一体何を見て何を感じていたのだろうと思い起こしていた。震災直後の当事者や目撃者が一言添えてくれるなら、現在は撤去できるものがほぼ撤去され、これからが正念場という状況を語るのだろう。大変なご苦労を知らぬ私には、これまでの被害の大きさと、これから復興に向けての極めて不安な足元に愕然とさせられることばかりだった。

その日はその足取りのまま南三陸にあるホテルへチェックインし、翌日の早朝、ホテルを後にし、仙台空港へ向かった。そしてこの2日間の思いを回想していた。

昨夜見た三陸町の海岸沿いは、大きな点線のように光のともしびと暗闇を繰り返していた。一年前ならば、朝日と共に訪れる美しい景色に心を震わせ感動することが出来ただろう。しかし震災は多くのものを奪い、ここに住む人々にとって残酷な現実をいま突きつけている。
何かが残ろうが何もかも流されようがここに生きていく者にとって本当の正念場はこれからだ。
被害に遭われた人々が、一刻も早く当たり前の生活と心の平穏が訪れることを心から祈る。 CHEB