東日本大震災ボランティア (宮城県石巻市)参加

大震災より三週間が経ちました。
自衛隊や警察、消防など緊急性の高い活動が落ち着きだし、地元の復興に動きがみられたことを知り、早速ボランティアセンターへ問い合わせた結果、週末を利用しての一泊四日(バス泊二日)で出向いて参りました。
移動手段として、多くの物資が運べる車の選択がありましたが、現地の状況が日々錯綜するなか、ガソリン供給はまず動ける現地の方のためにと判断して、フルに需要にこたえるだけの体力を考慮してバスでの移動。

年度替わりの四月一日金曜日の夜、気持ちを同じくした満員のバスは、梅田から12時間半後、朝8時に仙台駅へとたどり着きました。
仙台駅周辺の市街地は、大災害宮城と感じさせないほど一見して影響は見受けられません。(実際には電気やガスが止まるなどして営業できずにいた店舗などかなりあったようです。)
三週間経てば、着飾った若者が笑顔で行き交う光景に街は息を吹き返しつつ、その側で大きなリュックとタンクや食品など抱えてうつむき加減で闊歩するという、そんな複雑なタイミングでした。
あの時の神戸、市街地を襲った震災とは、まったく別の性質をもった災害であることをこの後知ることになります。


事前の調べで、目的地である石巻までの高速バスが日を追う毎に便数を増しているとの情報から、最適な時間帯に乗り継ぐことに。ガソリンの供給が再開されだしての週末に、多くの車が石巻、女川、気仙沼方面に向かい、かなりの渋滞に巻き込まれて予定する時間を二時間遅れで到着。ボランティアセンターがある石巻専修大学まで二キロほど悪地を歩いてたどり着きました。
早速、ボランティア受付をしてもらいました。辿り着いたのが遅かったせいか、そこには人がまばらで、ほとんどが現地に出向いた後だった様子。持参してきた物資を係りの方にお渡しすることにしました。
大阪から手持ちできる条件で、事前に需要を調査して用意した物は、店で声掛けしていたラジオと電池(ラジオ8台と電池30個ほど)。さらに、視覚障害者支援で問い合わせ、コーディネーターをされておられた日本盲導犬協会の中村さんのアドバイスを元に、日本ライトハウスで入手した白杖(視覚障害者用杖)120cmサイズ 3本を石巻ボランティアセンターに常備していただけるようお渡しいたしました。
その後、軽く地元新聞取材を受けたのち、気合の入れ直し。…が、来る時の渋滞を考えて、今日の宿泊する場所の確保をしなければならないことに不安がよぎりました。この近辺では当然宿泊できるような施設はなく、仙台市内のホテルもほとんどメディア関係が長期でとっているようで、残された宿も関係機関がいち早く抑えています。震災の影響で閉鎖しているホテルも多く、被災者限定に用意された部屋には問い合わせることもできず、寝泊まりできる環境は一般ボランティアにはございません。
この状況で、夕方を過ぎてから仙台に戻ることは、支援される側にまわってしまう行為。
気合を入れて乗り込んでみた初日で、こんなことで帰るわけにはいかないので、事務処理など何でもお手伝いすることにしました。避難所への物搬から内部の書類分け、スコップなどの洗浄。いろいろと作業は多種にわたり、センターの運営も重大で、機能的に回ることは容易ではないことを再確認させていただきました。
少し心苦しいけれど、明日への決意も胸に、日の沈まぬ時間帯に仙台に戻ることとなりました。
何とかネットカフェに空きがあり、摂氏0度という気温のなかで野宿せずに助かりました。

 翌朝、さらに早めのバスにに乗り込むべく5時半に起き、6時過ぎにバス停に着くと、すでに何重にも列ができていました。結局乗り込んだのが7時半のバス。昨日同様、渋滞に巻き込まれるも、9時過ぎにはセンターに着くことができました。本日の受付を済ませて、準備をしているところに、事前に県内募集の登録された仙台駅からのシャトルバスが到着すると、受け付けはごった返しの状態。
センターの方に声をかけられ、いつの間にか受付係になっていました。日曜日ということもあり、次々に来られるボランティアの誘導やら案内やら…で、気が付けばお昼前。今日こそはと、脳裏に移る津波の映像を思えば少しでも現地に出向いて直接お手伝いを考えていただけに…。
これまで出向いてきた災害支援の現場では、作業はもちろんのことですが、そこの住民の方たちからお話しを聞かせていただくことで、ほんの少し一歩でも前へ進める思いつながることを、という時間を貴重にしてきた部分もあり、大阪への帰路に立つ時間を逆算すると、もどかしさが沸き立ってきました。センターの方に促され、本日も管理業務を一通りこなすこととなりました。
一、二週間の住込みでお手伝いされておられる方々に、事の経緯や課題、それぞれの思いを聞かせていただいきました。己が心情で人の支えが全うできるほど簡単ではないことの意味を窺い知り、貴重で有難い作業をさせていただいた気がしました。

 昼の二時を過ぎ、時間的に制約はあることを承知の上で、沿岸部のほうへ向かうこととしました。
石ノ森章太郎の漫画館近くまで着くと、これまでの光景とは全く違います。建物は土台を残し流され、橋は歩道部分が崩落、車は折り重なり、重油のような黒いタール状が泥に交じる。自衛隊が数人毎の単位で数か所で作業し、救急車は30分単位で繰り返し往来する。まだこんな状況がほんの少し歩いた距離で続けられていました。(ちなみに国道周辺は、1.5~2メートルほどの津波の後はあるものの、崩壊に至る状況は比較的多くない。)
この先は、邪魔になってはいけないと察し、駅方向へ漫画ロードなる商店街に向かって戻ることとしました。何とも愛嬌のある“星の子チョビン”のオブジェにも、たくさんの掻き出されたであろう廃材などが周辺に積まれて悲しさを増します。これが沿岸二キロほど入ったところの状況です。
 駅に出てくると、本来のその意味合いは全く感じられず、閑散としており、中心部で炊き出しの準備がなされているのみ。少し動揺しながらも、駅前通りを変える方向に歩き出しました。
その途中にあった店舗(寿司屋さんか割烹のよう)から親子とみられる二人が励ましあっているように窺えたので、気になり話してみると、これまで自宅のほうでの片付けで、やっとのこと今日あたりからお店の掃除にかかっているのだと、そのように方言でも分かり易くお話しくださったので確かそうだと聞き取れたつもりで書いています。気か付けば、小一時間ほど整理や泥掻きなどしながら、若者にお店についての話などをしていました。失った悲しみよりも前に向かう姿勢を言葉から読み取ることができ、逆に教えられた気がします。そう、大丈夫です。
大阪から来たことにたいそう喜んでくれていたおばちゃん、“がんばっぺ”です!

石巻にいる間、二~三回の余震がありました。私が怖さを覚えたこの揺れに、住民たちには津波のトラウマになっていると考えられ、まだまだ完全に治まったといえません。
街の時計のほとんどが4時14分を指していました。地震の大きさよりも津波の破棄力を感じる不思議な光景でした。

仙台駅には夕方の暗くなる前に戻ってこれたので、牛タン定食をいただき、多少のお土産を購入しまして、帰りのバスを待つこと一時間。雪が降ってきました。気温計の表示は2度。
行く前に桜の開花宣言がなされてた大阪との距離を感じました。
でも、もうすぐ東北地方も春ですよ!

大震災より三週間が経ち、物資の緊急を要した配給がやっと少しずつ落ち着きはじめ、生活基盤をそれぞれの軌道に戻す動きがでてきたように見受けられます。
これだけの広範囲において、大人数から少数の避難場所、交通網が太い場所から完全に断たれてしまった地域、自宅非難者、傷病で動けぬ人、多様すぎて、情報の整理と配給のバランスが統括できぬところがこれほど時間を要した背景として致し方ないかもしれません。
全貌を把握するには各機関とも相当苦労したと考えられますが、個別のニーズに少し深入った状態まで応えるべく、対応が進められています。