東日本大震災ボランティア 13th(南相馬市小高区)

久しぶりの東北ボランティア、場所は南相馬市小高
前回6月にお手伝いをさせていただくために訪れたが、ボランティア依頼のチラシ配布が主たる作業であった。多少やり残した感とその後の様子を窺うべく再び行くことにしたのである。警戒避難区域解除後の間もない時期もあり、ほとんど手つかず状態であった6月からすれば、多く詰めかけるボランティアの甲斐あってさぞかし復旧されているのだろうと思いきや、結果から言うと、大きな変化は特に見られなかったのである。道路を塞いでいた車がどかされ、道に倒れていた動物の死骸はなくなっているとはいえ、依然と変わらずまったく人の息吹を感じ得ない状態。
>基本としてボランティアは、住民からの依頼に基づき作業にあたるわけだが、いまだ居住が許されていないエリアだけに求める絶対数が少ないのが現状。町として進まぬ中、少数の点在する依頼に応えていくという、何とも虚しさを感じる復旧の作業で、そこには復興などほぼ存在しない。言ってすぐにそれらを気付かされたが、我々は、それでも前に進むことを応援するしかない。
以下、今回の活動を私的かつ時系で表記します。

連休を利用して出向くことも考えられたが、関東からの参加者が多くなると思い、通常の週末を利用していくことにした。時間の都合がつかず、20日(土)の夕方、伊丹を出て仙台空港、その後レンタカーで南相馬の道の駅に着いたのが、夜の11時となった。
当初より遅くなることが分かっていたので、センターの宿に依頼せず、車中泊を選択。深夜はさすがに冷え込んだが少し仮眠をとり、集合時間の8時半に間に合うよう南相馬市ボランティア活動センターに到着。

南相馬市小高08約100名の参加者。集合がかけられ、名物センター長M氏による有難いお話に耳を傾けた。ボランティアは作業でなく、”人につくし、人に喜んでもらうこと” といった内容の話を深みのある独特な表現で語られた。その後、コーディネートで班分けされ、我々総勢15名は側溝の泥だしへと向かう。センターから約5分南下した集落でその横の側溝が現場。どの民家も、一年半前の津波による被害がそのままの状態で、一階部分が流された様子が痛々しく目に入る。この日一日、住民の人影を見ることはなかった。
センターの人に聞くところ、この地域を離れた人も多い。少数であるが復旧に望みをつなげるべく、避難所から通っている人もいるという。長期間の空き家状態で、ほとんどの民家では空巣に入られる被害があったそうだ。泥棒だ。ニュースで聞かされていたが、実際この状況を見て悪質な行為に及ぶ神経が到底理解できない。
地震、津波、原発、窃盗、そして政治。何重の苦しみを被らねばならないのか!?

朝9時過ぎから夕方4時前まで、ひたすら側溝の泥をかいた。
一年半放置されたそ側溝には泥はもちろん、大きな石やがれきが堆積して一筋縄ではいかない。底が見えるまで同じ個所を約30分かかった。海側民家側ともに水路は断たれて流れはない。いつの間にか多くの生き物が住み着いており、まずそれをどかしてポンプで水の汲み出し、周囲の草を刈って、スコップ等で泥をかいていく一連の流れ。
一時間に10分ほど休憩を入れながら、午前午後ともにかなりハードな力仕事(実際スコップの柄が三本折れてしまうほど)であったが、毎週のように通う関東からの参加者はいろんなことに精通していたおかげで、工程上にまったく問題はなかった。目的を遂行し、やり遂げた実感はわくものの、決して満足できる効果が生まれたとは感じない。見渡すと広大な平原と化した小高の町で、ほんの数百メートルを掃除したに過ぎないのだ。まだまだ大きな力(動き)が必要となりそうだ。
同ボランティア参加者→海人二十面相 井上さん(福島県郡山市)

センターに戻り、道具の洗い出しを終わらせ、間もなく解散。
4時半過ぎに小高を発ち、途中、睡魔と格闘しながら仙台に着いたのが6時過ぎ。宿で汗を流して駅に向かい、これまでのボランティアでであった方々と再会。地元で働く若者、石巻で教鞭をとる先生、農業再建を望むおじさん、その他数名。近況を聞かせていただいた。なかなか本音まで語れぬところであったが、訴えたいことはたくさんあるようだが、一様にあまり口に出さず、個々の可能な望みに対して確実に歩まれている様子を窺い安心した。
今回も多くの方に、人としての在り様と力を戴いた気がする。

そうそう、大切な現状の報告です。
前回で記載したかもしれませんが、この南相馬、さらに南部に位置する小高は、原発から北へ20キロほどの場所で、意外と放射線量は高くないです。(風向きの影響なのでしょう、北西部に位置する山間部にかけては、結構やばい箇所があり、懸命に除染活動しています。)
ちょうど浪江町との境に小高い丘があり、それを境に放射線量が軽減されたと考えられます。
この事実に基づいて一年以上の長期の間、避難区域として立入が許されない状態でした。そのため、津波以降手付かずで、空巣が横行し、実際この期間が住民の規制を遠ざけたと考えられます。生まれ育った土地、農業や漁業を営まれてた方が、その地を捨てる決断たるや想像を絶するものです。
日本全土において、やや冷めかけてきた話題ですが、まだまだ続いているんです。
決して風化してはいけない。これからも見届けていきたいと思います。