東日本大震災ボランティア 12th(南相馬市小高区)

東北復興のお手伝いをすべく、再び南相馬に行ってきました。
南相馬市は、三つの区に分けられ、北から鹿島区、原町区、そして今回出向いた小高区。発災後、直ぐに警戒避難区域に指定されたこの辺りは、原発の影響で、遠回りに迂回するため、気軽に行けないところである。そのため、前以て予定を立て、格安にて飛行機を手配し、なかなか取れない宿の代わりにレンタカーで車中泊を企てた。

予定通りに南相馬の小高区ボラセンについたのが夜の9時。集合場所であるこの場所で居座るつもりが、直ぐに消防団の人に注意された。この辺りは防犯上、車中泊は禁止だそうだ。少し戻ったところに南相馬の道の駅があったので、翌朝まで待機することにした。
道中、灯りは数カ所あり、一部町として機能を取り戻しつつあった。ただ、複雑なのが元気に光るパチンコ店。夜9時前後でその駐車場はほぼうまっている。いろんなことが考えられるのだが、こうこうと照る照明に少し物悲しくさせられた。

今回ボラセンの小高区は、第一原発から20キロ圏内の地域で、この4月にようやく住民の自宅立ち入りが自由にできるようになったものの、宿泊(居住)は禁じられており、いまだゴーストタウンとなっている。発災後一年以上もたつのに、がれきの撤去もこれから・・・。上下水道やインフラ復旧の見込みは立たず、除染作業にも至らない。この地に来て見て、手付かずの一年間は想像以上に長いものと感じられる。
かなり前に、我が国首相は、原発事故の終息宣言をうたったが、なにを見て、なにを感じて発せられたものか・・・。時に受け入れがたいことも示すのが長の役割と察したいが、経済と生活のとらえ方があまりにも不均衡なバランスではないか。後始末の責任取らない姿勢は、ここ小高区でいまだに色濃く残されているのだ。大飯原発論議にかなり思いが深まった。

6月下旬だというのに昼は17~18度、夜は10度ほどにも下がる。寒くて寝不足ながら朝を迎え、小高区社協会館へと走らせた。
8時半集合で約60名の雄姿。このころになると参加者はかなりの経験者が多い。なかには、自らの生涯をかけて、この復興を見届けたいとの思いの方もおられた。
作業内容により班分けされ、さらにグループ分けして、我々に課せられた任務が決まる。・・・ビラ配りだ。
がれき撤去を想定していたため、拍子抜けの感があったが、これが現状である。立入禁止区域の解除があったとはいえ、一年も放置された我が家を見捨てる方も少なくない。ほとんどの方は遠くに移り住んでいるか、容易に通えない仮設暮らしである。一割に満たない方が、何とか時間を作って週に一度程度片付けに来ているのだという。町の状態とは裏腹に、ボランティア作業のニーズが起こらないのだ。

可能な限り広範囲に、社協ボランティアのお知らせさせていただく必要があった。センターの自転車で丸一日かけて小高の町を(沿岸部中心に)一軒一軒回っていった。数百軒は回ったであろう。半壊、全壊問わず、最低限人が立ち入れそうな家を見つけてはポスティングした。これほどまわって、実際お話を伺えたのは4件のみ。
町中いたるところで、道が消えそうなほど草が育ち、広範囲で潮をかぶった水の引かない田んぼが川と同化し、目的地にさえたどり着けない。放置された自動車やトラクター、動物の死骸はもはや何の識別かさえ分からなくなっている。国・自治体が当初の捜索活動された以降、誰も立ち入っていないのだから、この現状も致し方ないのであろう。
聞かせていただけた話によると、国の除染が25年(来年)から始めるとだけ・・・。施策が具体化されない状態で、まさに方向性を失ったこの地において、出会ったひとりの(髪が真白になったという)おばさんは、家族で過ごす家がそこにあり、再びこの地で・・・と願っていて、そのほか大きな望みは特にないと語られた。
原発から20キロ以内の地であるが、郡山や伊達ほど線量が出ていない現実で一年も放置され、失った多くの物事の存在を私たちは記憶しておかなければならない。(HICO)

*写真は掲載に配慮し抜粋しています。