東日本大震災ボランティア 22th(南相馬市小高区)

東日本大震災ボラ 22th 01久方ぶりの福島南相馬に出かけた。
このところ 川内村 避難指示を一部解除などもあり、若干復興の見通しに明るい話題もあるが、現実それほど簡単ではない。感覚的に除染処理にも場所によってムラが多いようにも感じる。切望する声と裏腹に、チグハグな政策の遅延も手伝ってか、場所によってはそれほど進展がみられない現実がそこには幾多ある。
毎度お世話になっている南相馬小高のボランティアセンターによると、活動人員が激減していることが分かる。平日は10人に満たないなか、おおよそ30件の依頼が随時あるとのこと。この現実を知りつつも、この夏の関西圏における大雨災害でなかなか日程がとれず、約3ヶ月ぶりに参加するにいたった。
これまで小高で会ったどの人もそうであるように、生まれ育った町に戻りたいと願う住民の思いが明確である以上、少しでもお手伝いしたいと改めて感じた。

いろんな思いが巡りながら、前日福島入り。かなり冷え込む予報の朝を迎えたが、清々しい秋晴れ。8時過ぎに小高のボラセンに着いた。
いつもながらに独特の緊張感ある場所だ。他に比べて、来られる方も特徴的で、少しハードな作業にして、ガテン系とはまた違う。明確なのは、避難地域である以上、目的意識が明確であり、そして若者の割合が少ない、というところであろうか。
メディアや一般社会が原発を軸にたくさん論争しているが、この地では、ただ後片付けを日々一生懸命やり通す。先ず何をしなければならないかを、ただ実行しているのだ。

8時半頃、かなり騒がしくなってきた。センターのボランティア不足である現状の告知が功を奏し、この日JTBなど多くの団体が詰め掛けたようだ。約60名ほどでミーティングがなされた。今日のセンター長のお話しは、クワとツルハシの使う方向の違いについての話。そうこうしてる間に、班わけがなされ、草刈りに向かうこととなった。

東日本大震災ボラ 22th 04 場所は少し山側に入った、原発20km付近である。避難指示をギリギリで免れたご主人が出迎えていただいた。作業にかかる前にいつも通り、犠牲者への鎮魂と小高の復興に黙祷。6人の班で、作業は草刈りと瓦礫除去に別れての作業。おかしな事に、住まいのある辺りの瓦礫除去は20km圏外だが、歩いて向かった草刈りは20km圏内。ほんの数十メートルで、我々の想像を超えるほどの扱いに差異がうまれる。実際、ご主人は発災以降ずっとその地に住んで居られたという。ご自身の土地にして圏内(草刈り場所)だと瓦礫処理が除染扱いになるそうだ。対応や立場に違いはあれど、復興を望む気持ちは皆があきらかだ。

東日本大震災ボラ 22th 03東日本大震災ボラ 22th 0210時前、三名で草刈りに取り掛かった。それほど広くはないが、太い幹が絡んだ厄介な状況。所々、イノシシが食い散らかした跡がある。ほとんど聴き取れない東北弁のご主人から、なんとか聞き分けることができた単語だから、おそらく間違いないだろう。

東日本大震災ボラ 22th 05午前午後ともに草刈りをメインとし、3時前に切の良い状態となった。
その後、瓦礫処理班とともに、回収した瓦礫をトラックに積み込み、作業終了。御主人もたいそう喜んでいただけたようで納得いく形をとることができた。帰路につく途中、一件の民家でビニールハウス解体後の資材を回収するので立ち寄る。以前に体験したのだが、これらは回収業者が良い値をつけることが多く、住民との話し合いのうえ、大切なセンターの資金源となるのだ。本日は日曜日ということもあって、瓦礫とアルミを山ほど積み込んだ状態でセンターへ持ち帰ることで、作業終了とさせていただいた。

東日本大震災ボラ 22th 0610月18,19日、この辺り小高区では復興文化祭というお祭りらしく、発災以降この地に訪れた中では、最も多くの小高住民とお会いすることができた。こうした光景は普通の町である。皆さん、大半が避難所から来られたらしく、小さな子供連れも意外と多い。取り留めもないこの光景がなんとも暖かく、そして誇らしく思えた。ただ、普通の状態に戻るってことがたいそうな時間を要するものの、明確な目標として焼き付けた気がする。
(HICO)

この日多くの団体ボランティアを目にすることができて、少し安堵。平日の活動人員は少ないものの、週末だけでも多くの方が支援に駆けつけている様相は、少し前の一過性にとどまることなく、継続すれば頼もしい限りである。