新潟県中越沖地震復興支援 参加

平成19年7月16日新潟県中越沖地震 の復興のお手伝いをすべく、29日(日)に新潟に出向いた。

早朝に現地入りするため、夜行バスの予約を取った。これまでの長距離バスの疲労度からして列車も考えられが、生憎、震災の影響で夜行列車は運休となり、他に選択できる交通手段はない。
9:30梅田発(新潟行)に間に合うよう、大切な選挙投票を済ませ、雷雨の梅田でバスに乗車した。
6時前に燕三条ICで降車、そのままJRの在来線を乗り継ぎ、集合場所とである長岡駅に付いたのは7時過ぎとなっていた。
災害ボランティアバスは、行先別に3台待機しており、乗り込んだバスの行先は刈羽村。例の原発に最も近い町で、先回(3年前)の地震でも震度6、今回が6強を記録した、震源に最も近い集落のひとつ。


現地ボランティアセンターに到着したのが9時。が、連携がうまくいかず、行動に移せたのは、10時半となっていた。
ここで、状況を簡単に説明すると、
ライフライン 電気は震災後3日後、水道は10日後、ただし飲料用ではない。ガスは8月半ばを目処としている。
立入禁止の赤紙を貼られた民家は全体の約4割、この方々が地元の体育館で避難生活を送る。比較的物資の配給は足りているようだが、精神的な衰弱は見て取れる。炊き出しは、限られた場所でしか行われておらず、住民全員が足を運ぶにいたらない。付随して、村人全員の状況把握も勿論だが、交流の場をできるだけ設けるには、工夫が必要だ。
現在、仮設住宅は、刈羽で100程が建設中とのこと、高齢者も多いことから、集合住宅をという案も検討しているようだ。
住宅が定まらない現状において、大きな荷物の移動など体力を要するお手伝いはない。
ごみ処理も追いつかず、今は燃えるごみのみが回収されているだけ。混沌とした時期に来てしまったわけである。

前回の能登地震同様、各グループが更に4人ほどの班となり、30件ほどの民家に御用聞きすることとなった。神奈川からの御夫婦、大阪の大学生と一緒に回ることとなった。
訪れるほとんどの民家は赤紙(立入禁止)もしくは御留守。結局4~5件の住民の方からお話を聞かせていただいた。困っていることへのお手伝いが、励ましになればとの思いから話する時間がその大半を費やすこととなった。
3年前に続けて2度も壊滅的被害を追ったその情景からは、想像を超える人の大きさをどの方からも垣間見ることができる。前回の地震で1000万かけて修復した家が、この地震で全壊。やるせないもんだ。
この地特有の現象で、土地がほとんど砂である。通常の基礎だと、軽く5メートルは流されているようだ。
お話をする上で、幾度となく出る原発の問題。原発地域独特の恩恵やしがらみの中で皆さんが住んでいる。住居としては決して良いとはいえないこの地で、県内1~2の所得を誇るというのだから、複雑だ。

3時頃にはおおよその作業は終了し、3時半に現地を発った。
これまでに参加したボランティアに比べて、自衛隊の迅速な活動と局地的な地震であったことも含めると、特別に労を要するほどではなかった。ただ、台風の被害といい、このような地震、何時何処で災害に見舞われるかもしれない日本を再び考えさせられた参議院議員選挙日でした。

美しくある前に安心したいものですね!!

(HICO)